アイノコトバ
鳴り響く目覚ましを、自分の手で止める。
君のいない、日曜の朝。
はたから見れば馬鹿みたいに些細な事――明確に言うなら、待ち合わせ時間に俺が十五分遅れたこと――で衝突して、土曜の夜に喧嘩別れしたその原因が自分にあることは、きっと誰の目から見ても明らかだ。
普段ならお互い見逃せる程度の小さな言い訳とわがままが、一週間の仕事のストレスをかぶって肥大したところに持ってきて激突したもんだから、俺も彼女もお互い引かなくて、それが故に俺はいつもよりちょっと薄めのコーヒーを一人ですする羽目に陥ったわけだ。
ほんの少し、多分お互いほんの少し譲歩できたらこんな事にはならなかったんじゃないかと、今更ながらに考えてため息。
いつもなら君と話しながら食べてる朝ご飯が、めちゃくちゃ味気ないのに苛立ってテレビをつける。
適当にチャンネルを回して、邪魔にならない番組を探す。休日の朝なんてニュースかバラエティか教育テレビの将棋くらいしかないから、とりあえず巨大な将棋盤を見ながら食事を続ける事にした。
こんな番組見てると嫌がられたんだよね。君は将棋とか全然興味なかったから、必ず民放のニュース番組に回されてさ。
俺としてはまあどっちでもいいんだけど、朝飯食いながらケンケンゴウゴウ議論してるの聞いても面白くないかななんて少しは思ってた。君がいない今だから言うけどさ。
ふと思い立って俺は折りたたみ式の携帯電話を広げた。君と同じ機種の色違い。当たり前だけど着信がないのに少しだけ寂しくなって、食パンの最後の一切れを口の中に押し込んだ。
……まだ怒ってるかな。
一晩経って俺も落ち着いて、冷静になって考えれば待ち合わせに遅刻した俺が悪い事くらいわかってる。ならすぐに謝ればいいじゃないかと思うけど、昨夜はお互いかなり腹が立ってて、かなり昔に許したはずのいろんな事まで持ち出してきては傷つけあった。
本当に馬鹿だ。これは喧嘩の一番嫌なパターンを地で行ってると思う。
俺は彼女を傷つけたし、彼女に傷つけられもした。
だから怖いんだ。もう君が俺を……もしも必要としていなかったら、そう思うと。
きっとまだ怒ってるだろうな。君はそういう約束違反みたいな事が何より嫌いだったから、絶対まだ怒ってる。俺が今電話しても、メールしても、ロクに返事なんかしてくれないかもしれない。
いや、それならまだいい。だけどもし昨日の夜みたいに昔の事を蒸し返されてなんだかんだ言われたら、多分俺もまた黙ってはいられない気がする。そして君をまた傷つける。君にまた傷つけられる。お互い馬鹿みたいに罵りあう。
それだけは嫌だ。
真っ先に君に連絡が取れるように、メモリの最初の方に入れてある君の名前を選んで、「発信」に表示をあわせたまま、しばらく悩む。
……もう、少しだけ、待ってみようか。
こんな事、卑怯だとはわかってるけど、もう少しだけ。
俺は携帯電話を閉じて、パジャマのポケットに押し込んだ。
それから何をする気もなく、後片付けさえもしないでベッドに転がった。
テレビの将棋解説員の声がだんだん遠くなってきて、知らない間に俺はまぶたを落としていた。
君のことを思うだけで、不思議と心が弾む。
言葉にするなら月並みに、愛してるとか好きだとかしか言えないけれど。
君がそこにいてくれるだけで、俺は、馬鹿みたいに楽しくてしょうがなくて。
普段ならどうでもいいようないろんなことに、なぜか感動してしまったりして。
――別に、特別なものなんていらないよ。
誕生日プレゼントに悩んで悩んで悩んだ挙句、結局決める事ができなくて君に謝ったとき。
俺の言葉にびっくりしたように目を見開いて、君はそう答えてくれた。
――そうやって覚えていてくれた事が、とりあえず私嬉しいから。
はにかむような笑顔に逆に申し訳なくなった俺は、いらないって突っ張る君の手を引いて。
君の気に入るものを探そうと、夜の街を一緒に歩き回ったよね。
結局あの時は、君がどうしてもこれが欲しいって言い張るからたいして高くもないティーカップとソーサーのセットを二客分買ってプレゼントして。
それを抱えて微笑む君の表情に俺はひどく癒されて。
全く馬鹿みたいに、俺は君のことが好きでしょうがなかった。
今でもそうだ。
どこがとか、何がとかいうことじゃなく、とにかく君と一緒にいることが楽しくて嬉しくて、君の声を聞くだけで温まるような気がしてた。
君が泣いたら抱きしめて慰めたし、君が笑えば俺も笑った。
二人でいることで世界が何倍にも広がるような気さえした。
喧嘩したこともあったけど、それは大したものじゃなくて、すぐにまた昨日までの二人に戻れていたから。
だから今はただ――怖くて。
こんなに不安になった事なんてないくらいに怖くて。
まるでこのまま世界の全部が、俺の知らないものに変わっていくような気がするほどに。
――一緒にいることが、楽しい人がいるって、幸せだよね。
君の言葉。
俺を温めて支えてくれた、君の言葉。
――私、あなたといられるだけですごく楽しいよ。だから、そんなに心配にならないで。遊園地に行ったり、映画観に行ったりしなきゃいけないなんて思ってないから。
デートっていったらどこかに出かけて、何か特別な事をしなきゃならないと思っていた俺を、そう言って君はなだめてくれた。
今までこんなふうに人を好きになったり、その人と付き合ったりした事がない俺は、まるきり初心者だったからきっと君をたくさん困らせたんじゃないだろうか。
行きたくない映画に無理に付き合ったり、遠出したくない日に無理やりつれていかれたり、そんな事を知らないうちにしてたんじゃないだろうか。
そう思ったらますます情けなくなってきてヘコんだ俺に、君は笑ってくれて。
――さっき言ったでしょ? 私は、あなたといられるだけですごく楽しいの。
ああそうだ。今でも覚えてる。
君の笑顔も、声も、その仕草も。
だけどと反論しかけた俺の言葉を遮って、君が言った事も。
――それにね、あなたが私と会って楽しいと思うなら、……きっとその時はそれと同じくらい私も楽しいから。
だから君が好きだ。
どうしても君が好きだ。
時々子供っぽくわがままを言ったり、嫌いなものには目もくれなかったり、人に自分の好みを押し付けたりする困ったところもあるけれど。
それでも俺は。
「……」
目を開けると、カーテンの隙間から紅い光が差し込んで来ていた。ひどく寝覚めの悪い体を持ち上げて、枕元の時計を確認する。午後五時半、だんだんと日が傾いてくる時間だ。
「……迷ってる場合か、俺」
呟くと、俺は勢いよくベッドを下りた。
長い長い夢のせいか、さっきまでの気の迷いが嘘みたいに晴れていた。だって結局俺は君が好きだ。それ以外には何もなかった。だから俺は仕事のある日の朝並みのスピードで身支度を整えて家を出た。
慌しく愛車に飛び乗って、キーを回してエンジンをかけて。
君があんまり好きじゃないハードロックを、騒音一歩手前のレベルで響かせて。
たとえ君が俺を嫌いになっていても、それでも謝りたい。
だって俺は君が好きだから。
あんな事を言って君を傷つけてしまった以上、嫌われても仕方ないかもしれないと思うけど。
ほんの少し、残っていると信じたい可能性にかけて、アクセルを踏み込む。
こんなにも、俺が君に会いたい今は。
その十分の一でも、もしかしたら同じ気持ちでいてくれるんじゃないかと。
君の住む家のそばまで来た。
少し離れた場所に車を止めて、俺はすっかり暗くなった道を歩いた。
運転している間はあんなに早く着こうと思っていたのに、一歩一歩がひどく重たい。
ここまで来て怖気づいてどうするんだと思いながらも、どうしても急げなかった。
「……?」
ふと、君の住むアパートの前に、誰かが立っていることに気づいた。
街灯の白い光の下で、ただじっと手に持った携帯電話を見つめている人影。
一歩、また一歩と近づくたびに、その影が俯いた女性であるのが見て取れて。
「……あ」
俺が呟くのと同時に――白い光の下で、君が、顔を上げた。
「……」
「……」
何故君がここにいるんだろう、と思った俺は言葉に詰まった。そして多分君も似たようなことを考えたんだろう、固まってしまった。
一呼吸の間を置いて、俺は目一杯頭を下げた。
「ごめん!」
「……え……?」
「昨日の夜のことは、俺が悪かった。……それから、昨日言った事、その、腹が立ってて思ってもないことまで言って」
言葉が終わるより先に、軽やかな足音が聞こえて君の熱を感じた。
頭を下げた状態のまま抱きしめられて、不覚にも一瞬泣きそうになった。
「……ごめんね……私、私もあんな事で怒ったりして……」
「時間に遅れたんだから俺が悪いんだよ。……本当に、ごめん」
顔を上げると、君の潤んだ瞳が見えて、どこかほっとする。
「今ね……電話してたの。謝ろうと思って……。でも、全然出てくれないから、きっと怒って電話に出る気もなくなっちゃったんだと思って……」
「え!?」
慌てて、俺は服のポケットを探った。ああ、そういや携帯電話、パジャマのポケットに入れてそのまんま脱ぎ捨ててきたんだ。いくら彼女が電話してくれても、持ってなきゃ意味がない。
「ごめん、携帯家において来てた……」
「もう……相変わらず、忘れっぽいんだから」
笑う君の瞳から、涙が零れて。
嬉しいのと悲しいのと申し訳ないのが渾然一体になったような気持ちで、俺は君を抱きしめた。
「ごめん。……でも俺の方こそ、君に嫌われたかと思ってた」
「そんな事ないよ……。だって私、あなたが好きだもの」
くす、と小さな笑い声が聞こえたから、俺も笑った。
俺は君が好きだよ。きっといつまでも、それは変わらない真実。
だからもしも君が、俺を想ってくれるなら。
「あのさ……君が、俺を好きだって思ってくれるなら」
俺を温めてくれた君の言葉が、今度は君を温めてくれるように。
「きっとその時は、俺も同じくらい、君が好きだよ……」
街灯の真っ白い光の下で。
俺たちは飽きるまでそうやって、抱きしめあっていた。
君の笑顔を見ると、心が安らぐ気がする。
言葉にするなら月並みに、愛してるとか好きだとかしか言えないけれど。
君がそこにいてくれるだけで、俺は、何故だかとても嬉しくて。
普段なら出来ないようないろんなことが、全部簡単に出来るような気さえして。
君が好き。
この気持ちを君に伝えるなら、多分そうとしか言い様がない。
それはたった一言の、ごくありふれて平凡な。
愛の、言葉。
おわり
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